おひさまのかたち

日々つれづれ。剣道・読み語りなど

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「我」と「私」

 右下のブログパーツに読書メーターの窓があったのですが、
機能整備中のため更新停止だそうですので、一旦削除しましたよ。
(何でいつになっても更新されないんだろうと思っておりましたよ、気づけ私。)
興味がおありでしたら、下の「リンク」から飛べます。

 まだぽつぽつと『独歩病床録』を読んでおるのですが、
今は芸術論のくだりでね、この作品を書いた時はどうだとか、
そんな話が出てくるので、短編集を片端から読み返しています。
そんなんでなかなか進みませんよ。はっはっは。
昔何言ってるのか分からなかった『牛肉と馬鈴薯』とか、なかなかいいねえ。

 100分de名著が、今月は『維摩経』になりましてな。
前回の『三国志』は、丁度うちの子どもが『妖怪ウォッチ三国志』なるものが面白くてねえ、
なんて剣道ノートで言っていた後だったので、これを機会にと再挑戦。
もともと三国志は何度挑戦しても挫折していたのですが、
講師の先生が面白くてですな、とても分かり易かった。
ところが番組を聴いて、ほうほうなるほど。などと思って、テキストを閉じると、途端に端から抜けている。
どうにも性に合わないようですな。
漢字が多くて人の名前と事象がなかなか覚えらんないんだ。

 さて今月の『維摩経』。
少し前の道元和尚の『正法眼蔵』なんてのは難しくって、
とてもじゃないが稽古帰りの呆けた頭で理解できないので諦めておりました。
まあ今回は稽古を休んでおりますからもありましょうが、
今まで読んだ色んなものの再確認をしているようでありますよ。

 水は水であって、それが在り難かったり、怖いものであったり、厭なものであったりするのは、
つまりはそこに余計な自分があるからだと。
自分の感情がそこに映っているだけのことだと云う。
 忠太郎先生が、
自分を映すのは「鏡(かがみ)」だ、そこから「が(我)」を取ってごらん、残ったものが世界だよ」
というようなことをどこかで書いておられたが、それとおんなじことだと思った。

 『維摩経』は、固まった意識を何度でも打ち砕いて突き崩して、考え直せ、というのが
究極的に訴えたいことなんだそうな。
それは、出来た構えを何度も直して、もう立ち方から着装から全部見直して、っていう
剣道の昇段審査に向かう姿勢と似ている。

 座禅の先生がこの所ブログ書いていらして、
今暫く通えないので代わりに毎回楽しみに読んでいるんだけれども、
「私利私欲」という話が出てくる。
「私利私欲」というのと、「我」は似ているように思う。
では、どこまでが「我」で「私利私欲」なのだろうと考える。

子どもの命が繋がれ、と願うのは私欲だろうか?
誰かに使うかもしれなかった薬を使うことは私利ではなかったか?
止まった呼吸を人工的につなげたのは理法に反するエゴだったろうか?

でも私は、他に欲を持たないあの呼吸こそが「生きる」ということに見えたのだ。

呼吸をするこの体は他の生き物を殺して食し、次の世代を育てることで繋がる。
それは欲で利でないのか?
それは「私」か「我」か?

「僕の知人にこう言った人があります。《吾とはなんぞや》
なんちょう馬鹿な問いを発して自ら苦しむものがあるか到底知れない・・・。
僕の願いは寧ろ、どうにかしてこの問いを心から発したいのであります。」
  (国木田独歩『牛肉と馬鈴薯』より)

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